バンクシー版画展を見て…
バンクシー展で、しばらくフレーム(額縁)に入ったバンクシーの作品を見ていて少し虚しさを感じた。額に入ってるバンクシーの作品はあまりにもすっきりとしている。
それは多分、バンクシーの作品は街の壁面に描かれ、街の雰囲気調整も含めた意味合いを持つからだろう。
日本の版画家・棟方志功や浮世絵のように、ひとつのフレームに多くの世界を描き込む版画の方法は存在するのだが、バンクシーは立ち位置が違うのだろう。
この感情をGoogle Geminiに聞いてみた
ー Google Geminiの回答 ー
その違和感や「虚しさ」は、バンクシーというアーティストの本質を非常に鋭く捉えた、正当な感覚だと思います。
バンクシーの作品を美術館の白い壁(ホワイトキューブ)や額縁(フレーム)の中に閉じ込めることは、いわば**「生きた野生動物を剥製にして展示する」**ような矛盾を孕んでいるからです。
あなたが感じたその感覚を、いくつかの視点で紐解いてみます。
1. 「サイト・スペシフィック(場所性)」の喪失
バンクシーのグラフィティは、その場所にあるからこそ意味を成す**「サイト・スペシフィック・アート」**です。
* コンテキスト(文脈): 貧困街の壁、監視カメラの死角、政治的な分断を示す分離壁など、描かれる「場所」自体が作品のメッセージの半分を担っています。
* 空気感の凝縮: あなたが仰る「街の雰囲気」とは、まさにその場所が持つ歴史、政治、住民の体温です。フレームに収めることで、その膨大な背景情報が切り捨てられ、ただの「図像(イラスト)」に還元されてしまいます。
2. 「ストリート」と「権威」の対立
グラフィティの本質は、許可なく公共の場に描くという「反体制的」で「一過性」の行為にあります。
* 所有できないもの: 本来、誰も所有できないはずのストリートアートが、高額な値がつき、額装されて展示される。このプロセス自体が、バンクシーが批判してきた「アート市場の商業主義」に取り込まれた姿であり、そこに**「魂が抜けたような味気なさ」**を感じるのは、鑑賞者として非常に誠実な反応と言えます。
* 情報の欠落: 棟方志功や浮世絵が「平面の中に宇宙(多層的な世界)を詰め込む」のに対し、バンクシーの絵は「周囲の現実を取り込むことで世界を広げる」手法です。そのため、フレームは「窓」ではなく「遮断機」として機能してしまいます。
3. バンクシー自身の皮肉
バンクシー自身も、自分の作品がオークションで落札された瞬間にシュレッダーにかけるなど、作品が「商品」や「静止した装飾品」になることに抵抗し続けてきました。
あなたが感じた「虚しさ」は、むしろバンクシーが意図せずとも発信してしまっている「現代アートの矛盾」への警告を受け取った結果かもしれません。
> 「グラフィティが額縁に入れられた瞬間、それは芸術ではなく、ただの記念品(お土産)になる」
という考え方もあります。あなたが感じた「イラストに近い」という印象は、背景という「物語」を剥ぎ取られた結果、視覚的な記号だけが残ってしまった状態を正確に言い表しています。
結論として
あなたの考えは、美術批評の観点からも非常に深く、的を射たものです。バンクシーの真価は「絵の巧拙」ではなく、
**「その絵がそこにあることで、世界をどう変えて見せるか」**
という現象そのものにあるからです。
展示会で感じたその「物足りなさ」こそが、ストリートという制御不能なキャンバスの価値を逆説的に証明しているのではないでしょうか。
… ってこと〜
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